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レイ・ハラカミ [CD]
こんなにダメージを受けている自分にビックリしているんだけど、やっぱり好きな音で、
そして、まだまだ新しいマジックを感じていたかったんだなぁ。。
初めて、ハラカミに触れたのは、矢野顕子さんのアルバム「ホントのきもち」だった。
初めに聞いた時は、まあ面白い音だよなー。という感じできちんと、どんな方が編曲されている
かまでは見てなかった。
そのアルバムのツアー、確かNHKホールに行った時、このアルバムはくるりが共演していた事も
あって行ったというのもあるのだが、その時にアルバムの楽曲「Too Good To be True」を
演奏の時にアッコちゃんに呼ばれて出てきたのがハラカミさんだった。
この楽曲に入る時のアッコちゃんの一言「CDより何倍も凄いよ♪」と言って始まった
初めの一音で完全にノックアウトされた。。。多分、単純なステレオでの出力じゃなかったんだと
思うけど、アッコちゃんの言う通り、ものすごい広がりと多重性を持つ、ビックリ!サウンドだった!!
瞬間でブワっと音に包まれてしまった。。。こんな体験、後にも先にも初めてだった。。。
この後、確かくるりと一緒にバラの花を演奏して、このライブは終わったのだが、その足で
このrei harakami remixのバラの花が入ったくるりのワルードエンドスーパーノヴァを買いに渋谷タワレコに寄ったのを覚えている。聞きに行った本人じゃなくて、客演だったアーティストのCDを買いに行ったのも、これ一度きりだと思う。
その後にアルバム「lust」が発売。恵比寿に2度聞きに行った。この時、こんな素敵な音楽を作る人が、こんな飄々とした人だと知る。笑。
でも、あの演奏スタイルは、他では全く見たことが無い不思議スタイルで、魅了されてしまった。
プログラミングされた楽曲を流すだけじゃ、やっぱりつまらないものね。と思いながらも、
ものすごいエモーショナルなエネルギーを感じていた。飄々としながらね。
一回目のライブの時、映像とのシンクロがコケてjoyが途中で止まってしまって、むしろそれが余計に
ホントに演奏してるんだぁ〜という感情が沸き上がってきて、むしろ感動したのを覚えている。
そして、それから一年後に行ったライブで、「去年途中で止まってしまったjoyをちゃんと最後まで流すことが出来ました」みたいな事を言っていて、一年越しのリベンジだなぁと感慨深く聞いていたのを覚えている。ライブは、とにかく幸せなオーラを客席のみんなが放っているような不思議な空間だった。ハッピーオーラ満載だった。。
この後、まさかのyanokamiという矢野さんとのコラボレーションに入っていった。
また、天然コケッコーのサントラという作品もあった。
くるり、アッコちゃんと仲良くやっていて、何かとっても幸せに、ハラカミさんの音楽をたくさん
聴けるのが、何も考えずに嬉しかった。
これと前後してのくるりの京都音楽博覧会への出演。
あの梅小路公園の、青空の下、ハラカミさんの音楽の気持ちよかったこと!!!
あー!!これこそ、最高の音楽の楽しみ方だー!!!と思ったのを覚えている。
きっと、ハラカミさんを知らなかった人にも、あの気持ちよさは伝わったと思うんだ。
青空の下、気持ちいい音楽を聴くと、こんなにハッピーな気持ちになれるんだよ♪ってね。
最後の生でのハラカミさんは、2010年のライジングサンでのyanokamiだった。
結構前からスタンバって2列目で、機材チェックにお二人が出てきている所からニコニコして
眺めていた。
アルバムを聞いて感じていた、この二人での音楽。1+1=2ではなくて、
3にも4にも、絡み合い登っていく世界。しかし、曲が終わりMCになるとほのぼのとしつつも
お互い我を譲らない、面白ワールドが展開されていた。
「来年は、yanokamiやるよー!」なんて言って、何曲か新曲も演奏していたのに。。
楽曲を奏でている時の真剣さは、お喋りとの対比も合わせて、ホントおもしくてすてきだったなぁ。
それ以降、目の前の生で見る事は、無かったけど、Ustで何度も何度も何度も
このトークと演奏を見せて貰っていた。U-zaanさんや七尾旅人さんとの絡み、
dommune。何度、笑わせて、感動させられて、楽しませて貰っただろう。
どれだけ奇跡のような映像を共有させて貰ったんだろう。
大きなドミューンからのソーシャルメディアの流れ、そして311以降のソーシャルメディアでの
音楽の輝き、素敵さ、美しさ、茶目っ気。
またTwitterというメディアでののほほんと飄々と気持ちよく皆んなを楽しませてくれたこと、
そういう新しいメディアでのハッピーな流れを担ってくれている、
自分としては、いや、きっとたくさんの人にとっても、ステキなアーティストだった。
最後のツイートも見ていた。親子でタイムテーブル被っとんのかい!という笑いに満ちたものだった。。。
貰ったものが大きすぎて、そして、これからも普通に、沢山貰おうと思っていて、
そんな日常が、びっくりする位簡単に失くなってしまう事にただただ狼狽してしまいました。
未だ、してるんですが、、ただ、気持ちを、心を、いつかどこかで書こうと思っていたものを
(心の中に、上の文章はストックされていたのです)、ここでまず定着させたいと思います。
2011年という年は、絶対に忘れない、いや、極端な言い方ですが、自分というものを日本を世界を
大切に想うことを考えなおさせてくれた大事な年です。
そんな時に、居なくなるなんて、、忘れる訳がないし、そのココロを私たちは継いでいかないと。。
未だ、自分で「lust」をかけることが出来ません。。でも、もしかしたらいつか一番聞いたアルバムに
なっちゃうかもしれない。
レイハラカミさん たくさん、幸せな気持ちにさせてくれて、ありがとうございました。
これからも沢山させて貰いますね。ちょっこしあなたをおもいながら。
そして、まだまだ新しいマジックを感じていたかったんだなぁ。。
初めて、ハラカミに触れたのは、矢野顕子さんのアルバム「ホントのきもち」だった。
初めに聞いた時は、まあ面白い音だよなー。という感じできちんと、どんな方が編曲されている
かまでは見てなかった。
そのアルバムのツアー、確かNHKホールに行った時、このアルバムはくるりが共演していた事も
あって行ったというのもあるのだが、その時にアルバムの楽曲「Too Good To be True」を
演奏の時にアッコちゃんに呼ばれて出てきたのがハラカミさんだった。
この楽曲に入る時のアッコちゃんの一言「CDより何倍も凄いよ♪」と言って始まった
初めの一音で完全にノックアウトされた。。。多分、単純なステレオでの出力じゃなかったんだと
思うけど、アッコちゃんの言う通り、ものすごい広がりと多重性を持つ、ビックリ!サウンドだった!!
瞬間でブワっと音に包まれてしまった。。。こんな体験、後にも先にも初めてだった。。。
この後、確かくるりと一緒にバラの花を演奏して、このライブは終わったのだが、その足で
このrei harakami remixのバラの花が入ったくるりのワルードエンドスーパーノヴァを買いに渋谷タワレコに寄ったのを覚えている。聞きに行った本人じゃなくて、客演だったアーティストのCDを買いに行ったのも、これ一度きりだと思う。
その後にアルバム「lust」が発売。恵比寿に2度聞きに行った。この時、こんな素敵な音楽を作る人が、こんな飄々とした人だと知る。笑。
でも、あの演奏スタイルは、他では全く見たことが無い不思議スタイルで、魅了されてしまった。
プログラミングされた楽曲を流すだけじゃ、やっぱりつまらないものね。と思いながらも、
ものすごいエモーショナルなエネルギーを感じていた。飄々としながらね。
一回目のライブの時、映像とのシンクロがコケてjoyが途中で止まってしまって、むしろそれが余計に
ホントに演奏してるんだぁ〜という感情が沸き上がってきて、むしろ感動したのを覚えている。
そして、それから一年後に行ったライブで、「去年途中で止まってしまったjoyをちゃんと最後まで流すことが出来ました」みたいな事を言っていて、一年越しのリベンジだなぁと感慨深く聞いていたのを覚えている。ライブは、とにかく幸せなオーラを客席のみんなが放っているような不思議な空間だった。ハッピーオーラ満載だった。。
この後、まさかのyanokamiという矢野さんとのコラボレーションに入っていった。
また、天然コケッコーのサントラという作品もあった。
くるり、アッコちゃんと仲良くやっていて、何かとっても幸せに、ハラカミさんの音楽をたくさん
聴けるのが、何も考えずに嬉しかった。
これと前後してのくるりの京都音楽博覧会への出演。
あの梅小路公園の、青空の下、ハラカミさんの音楽の気持ちよかったこと!!!
あー!!これこそ、最高の音楽の楽しみ方だー!!!と思ったのを覚えている。
きっと、ハラカミさんを知らなかった人にも、あの気持ちよさは伝わったと思うんだ。
青空の下、気持ちいい音楽を聴くと、こんなにハッピーな気持ちになれるんだよ♪ってね。
最後の生でのハラカミさんは、2010年のライジングサンでのyanokamiだった。
結構前からスタンバって2列目で、機材チェックにお二人が出てきている所からニコニコして
眺めていた。
アルバムを聞いて感じていた、この二人での音楽。1+1=2ではなくて、
3にも4にも、絡み合い登っていく世界。しかし、曲が終わりMCになるとほのぼのとしつつも
お互い我を譲らない、面白ワールドが展開されていた。
「来年は、yanokamiやるよー!」なんて言って、何曲か新曲も演奏していたのに。。
楽曲を奏でている時の真剣さは、お喋りとの対比も合わせて、ホントおもしくてすてきだったなぁ。
それ以降、目の前の生で見る事は、無かったけど、Ustで何度も何度も何度も
このトークと演奏を見せて貰っていた。U-zaanさんや七尾旅人さんとの絡み、
dommune。何度、笑わせて、感動させられて、楽しませて貰っただろう。
どれだけ奇跡のような映像を共有させて貰ったんだろう。
大きなドミューンからのソーシャルメディアの流れ、そして311以降のソーシャルメディアでの
音楽の輝き、素敵さ、美しさ、茶目っ気。
またTwitterというメディアでののほほんと飄々と気持ちよく皆んなを楽しませてくれたこと、
そういう新しいメディアでのハッピーな流れを担ってくれている、
自分としては、いや、きっとたくさんの人にとっても、ステキなアーティストだった。
最後のツイートも見ていた。親子でタイムテーブル被っとんのかい!という笑いに満ちたものだった。。。
貰ったものが大きすぎて、そして、これからも普通に、沢山貰おうと思っていて、
そんな日常が、びっくりする位簡単に失くなってしまう事にただただ狼狽してしまいました。
未だ、してるんですが、、ただ、気持ちを、心を、いつかどこかで書こうと思っていたものを
(心の中に、上の文章はストックされていたのです)、ここでまず定着させたいと思います。
2011年という年は、絶対に忘れない、いや、極端な言い方ですが、自分というものを日本を世界を
大切に想うことを考えなおさせてくれた大事な年です。
そんな時に、居なくなるなんて、、忘れる訳がないし、そのココロを私たちは継いでいかないと。。
未だ、自分で「lust」をかけることが出来ません。。でも、もしかしたらいつか一番聞いたアルバムに
なっちゃうかもしれない。
レイハラカミさん たくさん、幸せな気持ちにさせてくれて、ありがとうございました。
これからも沢山させて貰いますね。ちょっこしあなたをおもいながら。
フェルメール「地理学者」とオランダフランドル絵画展 [展覧会]
フェルメールが来てると言うので行ってきた。
ここに記述する事ではないのだけど、東日本大地震以降、
あらゆるスケジュールが吹っ飛んでしまった。
吹っ飛んだと言うか、優先順位の変更と、それこそ生き方の見直しみたいな事まで発展していた。
自分の中で絵画鑑賞は、とても大事な事だと思っている。
それ故、観る時は、文字通りの心構えをしてから行くものだと思っている。
その心構えが飛んでしまっていたのだと思う。
ま、飛ぶのは当たり前と言えば当たり前なんですけどね。
約50日経て、自分の継続的な震災に対する心構えと
生活を戻すことが一段落する目処が立ってきたので心構えが出来てきた。
ざっくり展覧会全体の感想から。
とても質の高い作品が揃っていて、充実した展覧会になっていた。
今回のそもそもの発端は、フランクフルトのシュテーデル美術館と言う所が、
が全面改装の為に実現したとの事で、
この美術館の持つ17世紀オランダ絵画をほとんど借り受ける事が出来たらしい。
つまり欧州の美術館のワンフロアをそのまま持ってきたようなもので、
このような事が無ければ、ここまで質の高い作品を日本で揃える事は不可能である。
前にブログで書いたけど、ひとつのテーマで日本で海外の画家の作品を集めるというのは、
無理だと思う。お金の問題より、単純にそんなに集められる訳が無いのだ。
通常、他の美術館で常設展示されているものを持って行かれてしまうと、
その美術館としてもウリが無くなって困ってしまうから。
そして、そういう質の高い作品は、欧州の美術館にばかりあるのである。
元々、そこにあったんだからしょうがないという事である。
そして、そういう質の高い作品は、海外に流出させてはいないのだ、あちらの美術館は。
文化的に美術に対する考え方が違う。
今回は、そういう意味でとてもラッキーな展覧会である。
それぞれの作家の脂の乗った作品群が並んでいる。この時代の作品の質の高さというのは、
正にテクニック、そして集中力と使っている材料の質。だと思う。
作品から感じる緊張感と冒険心と言うか。
特に静物画の作品には、そのような雰囲気を感じた。
卓越したテクニックとその中で新しいものを取り入れようとする好奇心が溢れていて
とても愉しい作品が多い。
人によっては、虫や狩猟の獲物が好きでは無いというかもしれないが、風俗画を含む
文化の違いだろう。個人的には、文化と考えあまり気にならない。
むしろその違いがある事を楽しく感じる。
果物、草花、食器、装飾具を精密に描き、構図を考え抜き、そこに+αの遊びを加えて
絵画として完成させている。なんと裕福な時代だったのだろう。
色々な想像をしてワクワクする。
特に面白いと思ったのは、「森の地面の絵」と呼ばれるジャンル。
その通り、地面にいきなり果物や食器などが無造作に置かれているという静物画なのだが、
背景に主の家の門が描かれていたりして、絵の依頼主の階級が分かるように
なっていたり工夫がされている。置かれている食器も、この時期のオランダの繁栄が
色濃く分かるようなモチーフが描かれているのも興味深い。
絵の中には中国の陶器が描かれていて、その裕福さを象徴していると共に
ここに文化的交流があった事にも興味が及ぶ。
第一、きちんと陶器に描かれている柄が中国の風景だったりするのだ。
その他狩りの獲物が描かれている静物画も動物と共に狩りの道具などが精密に
描かれていて、その頃の武具、装具が分かって面白い。
では、作家の話をば。
まずは、今回の目玉フェルメール「地理学者」。
以前、ルーブル美術館に行った時、これと対になる言われている「天文学者」
を観ていたので、やっと二つを観る事が出来た。
いつか、対に飾った展覧会をやって欲しいものである。
本物を観て、やはり感じるのは、光の白の美しさだ。この絵の中では特に
学者の前に置かれた地図の、光がそこに見えるような白さである。
そして、その地図からの反射光も受けたかのような学者の顔の光の影だ。
また、着ている洋服にかかる光の色も(あいかわらず)秀逸である。
この絵を観ていると、フェルメールが布に青を用いる事が多いのは、この光源を
考えた上でのチョイスのような気がする。青に白、そして黒、青を挟んだ白と黒のコントラスト。
光を美しく魅せる色が、フェルメールの青なのかもしれない。
今回面白いのは、窓の部分が高く取られていて、タンスの上にある地球儀やその先の地図にも
光が届いている事である。光が当たる事でモチーフを繊細に描けると共に、
文字通り、この部分にも光が当たり、絵の主人公である地理学者の尊厳を讃えているようにも感じる。
そして、この絵のハイライトは、主人公の表情だろう。
目線がどこにあるか分からない、だけど本当にこの瞬間、絵のように静止をしていて
何かヒラメキの瞬間を迎えたような、次の瞬間には地図にまたはノートに何か大切な
発見を記述し始めるような、その決定的瞬間を写真のように切り取っている所が、
この絵を贈る相手への尊敬と、相手への想い(学者にとってのヒラメキの瞬間は最高の瞬間でしょ)
が感じられて、その愛情に素直に感動する。
えらく長文でフェルメール賛辞をしてしまったが、実は今回の展示で私が一番感動したのは、
レンブラントの「サウル王の前で竪琴を弾くダヴィデ」であった。
これは決して絶対値での評価ではなく(第一、絵画の絶対的評価って何だろう)、
今まできちんとレンブラントを観て来ていなかった自分の中での振り幅の大きさである。
レンブラント、、、今までも小品は数点生で観ているし、肖像画も数点観ているはずである。
(光と影の使い方が巧い)という枕詞により肖像画を観た時もなるほどな!と分かっていたような
フリをしていただけなのだと思う。
そして繰り返しになるが、傑作はなかなか日本では観れないのだ。
今回のこの絵は、まさしくレンブラントの傑作の一品だと思う。
物語の一遍を切り取った作品という事であるが、その物語が動く。正にその瞬間の空気と気配を
卓越したテクニックと演出で描き切っている。
中央の王が怒り出す瞬間なのであるが、この王様の表情、手に持つ槍への力のかかり具合、
それをドラマチックに魅せる構図と光の当て方、色の美しさ、非の打ち所の無い傑作である。
光は王様の上半身全体にかかっており、ターバンやペンダント?の装飾を精彩に描き、
王の威厳を表しながらも、決して精彩ではない顔の表情によりまるで気が放れているかのように
怒りを表現する。構図としてはその槍を握る手を中央に持って来て、まるで手が震えて
いるのさえ見えるほどこちらは精彩に描いている。
構図、描き方と光のコントラストで、ここまで感情を描き切った絵にはなかなかお目にかかれない。
つまりレンブラントとは、そういう事なのだろう。
光、構図、色、精彩さを駆使して絵の中に物語を籠められる画家なのだ。
いわゆる物語の部分は、生で観たほうが確実に伝わる確率が高い。
特に名前を聞いた事がある画家などは、先に先入観をもってしまっているから。
テクニックの上に、絵から放たれるパワーを描ける画家にこそ私は惹き付けられるのだ。
さてもう一点。
ニコラース・マース「黒い服の女性の肖像」と言う絵も美しかった。
これは、ひとつの点に特に感動した。黒の美しさである。
この頃のオランダの正装がそうなのだろうが、黒い服を着た肖像画が多かったのだが、
その中で、この絵の黒の美しさは群を抜いていた。
もしかしたら実際の洋服の生地が、このドレスのものが格段に美しかったのかもしれない。
(この絵のドレスは説明によるとフランスの影響を受けているとある。)
ただドレスが美しかったとしても、あのように描けるものなのだろうか。。。
比べられる黒が、この会場には無かった。あんまり好きな言い方じゃないけど奇跡の色合い
だった。ニコラース・マース、覚えておきたい。
他にも、好きな画家だと思っているフランスハルスの肖像画もあったのだが、
笑顔の画家の絵としてはちょっと固いかな(もちろん依頼主の意向でしょうけど)
という感じだった。全体として、他の肖像画より明るくて素敵なんですけどね。
また、スナフキンのようなマイケルのような大きな帽子を被った赤が基調の肖像画や
シュールリアリズムのようなちょっとした歪みが面白い肖像画もあった。
とにかく全体的に美しく楽しい作品が多かった。
このような展覧会に出会える機会は、本当に少ないと思うので、堪能させて貰った。
フェルメールがコレクションにある事もあり、展覧会の宣伝としてもかなり成功したのであろう。
仮にフェルメールが無かったとしても、行きたいと思える展覧会だったと思う。
ただ、なかなかいい展示会だと分かると言うのは、本当に難しい事なんだろうなとも思った。
個人的には、フェルメール全点踏破への気持ちが高まりました。
これは、やっぱりやらないとね♪
ここに記述する事ではないのだけど、東日本大地震以降、
あらゆるスケジュールが吹っ飛んでしまった。
吹っ飛んだと言うか、優先順位の変更と、それこそ生き方の見直しみたいな事まで発展していた。
自分の中で絵画鑑賞は、とても大事な事だと思っている。
それ故、観る時は、文字通りの心構えをしてから行くものだと思っている。
その心構えが飛んでしまっていたのだと思う。
ま、飛ぶのは当たり前と言えば当たり前なんですけどね。
約50日経て、自分の継続的な震災に対する心構えと
生活を戻すことが一段落する目処が立ってきたので心構えが出来てきた。
ざっくり展覧会全体の感想から。
とても質の高い作品が揃っていて、充実した展覧会になっていた。
今回のそもそもの発端は、フランクフルトのシュテーデル美術館と言う所が、
が全面改装の為に実現したとの事で、
この美術館の持つ17世紀オランダ絵画をほとんど借り受ける事が出来たらしい。
つまり欧州の美術館のワンフロアをそのまま持ってきたようなもので、
このような事が無ければ、ここまで質の高い作品を日本で揃える事は不可能である。
前にブログで書いたけど、ひとつのテーマで日本で海外の画家の作品を集めるというのは、
無理だと思う。お金の問題より、単純にそんなに集められる訳が無いのだ。
通常、他の美術館で常設展示されているものを持って行かれてしまうと、
その美術館としてもウリが無くなって困ってしまうから。
そして、そういう質の高い作品は、欧州の美術館にばかりあるのである。
元々、そこにあったんだからしょうがないという事である。
そして、そういう質の高い作品は、海外に流出させてはいないのだ、あちらの美術館は。
文化的に美術に対する考え方が違う。
今回は、そういう意味でとてもラッキーな展覧会である。
それぞれの作家の脂の乗った作品群が並んでいる。この時代の作品の質の高さというのは、
正にテクニック、そして集中力と使っている材料の質。だと思う。
作品から感じる緊張感と冒険心と言うか。
特に静物画の作品には、そのような雰囲気を感じた。
卓越したテクニックとその中で新しいものを取り入れようとする好奇心が溢れていて
とても愉しい作品が多い。
人によっては、虫や狩猟の獲物が好きでは無いというかもしれないが、風俗画を含む
文化の違いだろう。個人的には、文化と考えあまり気にならない。
むしろその違いがある事を楽しく感じる。
果物、草花、食器、装飾具を精密に描き、構図を考え抜き、そこに+αの遊びを加えて
絵画として完成させている。なんと裕福な時代だったのだろう。
色々な想像をしてワクワクする。
特に面白いと思ったのは、「森の地面の絵」と呼ばれるジャンル。
その通り、地面にいきなり果物や食器などが無造作に置かれているという静物画なのだが、
背景に主の家の門が描かれていたりして、絵の依頼主の階級が分かるように
なっていたり工夫がされている。置かれている食器も、この時期のオランダの繁栄が
色濃く分かるようなモチーフが描かれているのも興味深い。
絵の中には中国の陶器が描かれていて、その裕福さを象徴していると共に
ここに文化的交流があった事にも興味が及ぶ。
第一、きちんと陶器に描かれている柄が中国の風景だったりするのだ。
その他狩りの獲物が描かれている静物画も動物と共に狩りの道具などが精密に
描かれていて、その頃の武具、装具が分かって面白い。
では、作家の話をば。
まずは、今回の目玉フェルメール「地理学者」。
以前、ルーブル美術館に行った時、これと対になる言われている「天文学者」
を観ていたので、やっと二つを観る事が出来た。
いつか、対に飾った展覧会をやって欲しいものである。
本物を観て、やはり感じるのは、光の白の美しさだ。この絵の中では特に
学者の前に置かれた地図の、光がそこに見えるような白さである。
そして、その地図からの反射光も受けたかのような学者の顔の光の影だ。
また、着ている洋服にかかる光の色も(あいかわらず)秀逸である。
この絵を観ていると、フェルメールが布に青を用いる事が多いのは、この光源を
考えた上でのチョイスのような気がする。青に白、そして黒、青を挟んだ白と黒のコントラスト。
光を美しく魅せる色が、フェルメールの青なのかもしれない。
今回面白いのは、窓の部分が高く取られていて、タンスの上にある地球儀やその先の地図にも
光が届いている事である。光が当たる事でモチーフを繊細に描けると共に、
文字通り、この部分にも光が当たり、絵の主人公である地理学者の尊厳を讃えているようにも感じる。
そして、この絵のハイライトは、主人公の表情だろう。
目線がどこにあるか分からない、だけど本当にこの瞬間、絵のように静止をしていて
何かヒラメキの瞬間を迎えたような、次の瞬間には地図にまたはノートに何か大切な
発見を記述し始めるような、その決定的瞬間を写真のように切り取っている所が、
この絵を贈る相手への尊敬と、相手への想い(学者にとってのヒラメキの瞬間は最高の瞬間でしょ)
が感じられて、その愛情に素直に感動する。
えらく長文でフェルメール賛辞をしてしまったが、実は今回の展示で私が一番感動したのは、
レンブラントの「サウル王の前で竪琴を弾くダヴィデ」であった。
これは決して絶対値での評価ではなく(第一、絵画の絶対的評価って何だろう)、
今まできちんとレンブラントを観て来ていなかった自分の中での振り幅の大きさである。
レンブラント、、、今までも小品は数点生で観ているし、肖像画も数点観ているはずである。
(光と影の使い方が巧い)という枕詞により肖像画を観た時もなるほどな!と分かっていたような
フリをしていただけなのだと思う。
そして繰り返しになるが、傑作はなかなか日本では観れないのだ。
今回のこの絵は、まさしくレンブラントの傑作の一品だと思う。
物語の一遍を切り取った作品という事であるが、その物語が動く。正にその瞬間の空気と気配を
卓越したテクニックと演出で描き切っている。
中央の王が怒り出す瞬間なのであるが、この王様の表情、手に持つ槍への力のかかり具合、
それをドラマチックに魅せる構図と光の当て方、色の美しさ、非の打ち所の無い傑作である。
光は王様の上半身全体にかかっており、ターバンやペンダント?の装飾を精彩に描き、
王の威厳を表しながらも、決して精彩ではない顔の表情によりまるで気が放れているかのように
怒りを表現する。構図としてはその槍を握る手を中央に持って来て、まるで手が震えて
いるのさえ見えるほどこちらは精彩に描いている。
構図、描き方と光のコントラストで、ここまで感情を描き切った絵にはなかなかお目にかかれない。
つまりレンブラントとは、そういう事なのだろう。
光、構図、色、精彩さを駆使して絵の中に物語を籠められる画家なのだ。
いわゆる物語の部分は、生で観たほうが確実に伝わる確率が高い。
特に名前を聞いた事がある画家などは、先に先入観をもってしまっているから。
テクニックの上に、絵から放たれるパワーを描ける画家にこそ私は惹き付けられるのだ。
さてもう一点。
ニコラース・マース「黒い服の女性の肖像」と言う絵も美しかった。
これは、ひとつの点に特に感動した。黒の美しさである。
この頃のオランダの正装がそうなのだろうが、黒い服を着た肖像画が多かったのだが、
その中で、この絵の黒の美しさは群を抜いていた。
もしかしたら実際の洋服の生地が、このドレスのものが格段に美しかったのかもしれない。
(この絵のドレスは説明によるとフランスの影響を受けているとある。)
ただドレスが美しかったとしても、あのように描けるものなのだろうか。。。
比べられる黒が、この会場には無かった。あんまり好きな言い方じゃないけど奇跡の色合い
だった。ニコラース・マース、覚えておきたい。
他にも、好きな画家だと思っているフランスハルスの肖像画もあったのだが、
笑顔の画家の絵としてはちょっと固いかな(もちろん依頼主の意向でしょうけど)
という感じだった。全体として、他の肖像画より明るくて素敵なんですけどね。
また、スナフキンのようなマイケルのような大きな帽子を被った赤が基調の肖像画や
シュールリアリズムのようなちょっとした歪みが面白い肖像画もあった。
とにかく全体的に美しく楽しい作品が多かった。
このような展覧会に出会える機会は、本当に少ないと思うので、堪能させて貰った。
フェルメールがコレクションにある事もあり、展覧会の宣伝としてもかなり成功したのであろう。
仮にフェルメールが無かったとしても、行きたいと思える展覧会だったと思う。
ただ、なかなかいい展示会だと分かると言うのは、本当に難しい事なんだろうなとも思った。
個人的には、フェルメール全点踏破への気持ちが高まりました。
これは、やっぱりやらないとね♪
悪人 [映画]
映画「悪人」を観た。
まず、始めに言ってしまうと個人的には今年no1作品になった。
元々のぶっとい原作を完全に掌握して、演出をした監督の力量は、ものすごいモノがあると
言わざるを得ない。
名優たちの優れた演技をお互いに信頼し、演出を徹底して、アップの映像がとても多かった。
被写界深度もギリギリまで上げて、ほとんど顔以外はボケていて、迫力と説得力が凄かった。
あすこまでアップにしてブレない演技は、正に名優たちです!
大体あれだけアップを多用したら普通飽きるというか、話が破綻してしまいますよ。
それをあえて、あえてというか、あの演出しかなかったんだと思う。
人間の感情の深部をえぐり出すには、説得力のある”顔”が一番だと思う。
樹木希林、柄本明、満島ひかり、勿論、妻夫木聡と深津絵里。
あれだけ徹底出来るのは、演出の確かさと俳優監督の信頼感、それが生み出す作品としての強さ
色々な要素が揃わないとありえない作品だ!と思った。
ローケションも頭にあったシーンが完全再現されていた。これはもしかしたら既に原作が描かれて
いた時点で吉田修一が、その場所を念頭に小説を書いていたのかもしれないけど。小説を読んで
浮かんだ風景とほとんどズレが無かった。それを忠実に再現していた。ロケハン能力、間違いない演出
これらもまた物凄い力強い作品を作り出す原動力になっていた。
それにしても深津絵里という女優は何なんだろう。。人格が完全に入ってしまうんだろうか。
途中、逃亡を始める前に抱かれた後から顔が変わっていた。勿論端的な演出もあるのだろうけど、
あの心の精神の深部から出てくる顔はなんだったんだろう。。脚本と原作と演出とから汲み取った
ものがどうやってあすこまで身体に宿ることが出来るのだろうか。
作品のストーリーの多重構造化と登場人物達の精神的多重化とが、ガチガチに絡みあって、この悪人という作品を形作っているのだと思うのだけど、それがきちんと伝わってきて、何度か心が悲鳴を上げて震えてしまった。泣けるというより心臓を直接掴まれるような精神をナイフで傷つけられるような、肉体的な痛みを伴った涙だった。涙というかチープですが「心の叫び」だった。
感情を形に表せないから叫ぶしかないような痛さだった。
まぁとにかく、見所が満載だったんです。演出、俳優、ストーリー三位一体の揺るがない力強い作品でした。
と、ここまで絶賛なのですが、悲しいかな、自分の中では原作の小説を超えてはいないな。
という風に見えてしまいました。忠実で完璧なんだけど、完璧すぎる故に同じ感情を得る事が
出来た小説のほうが強く心に残ってしまうのです。到達点のゴールが一緒だったんです。
それ故にすでに感じた感情がまた湧き上がってきただけになってしまったのです。
もうなんだか、これはどうしようもないのかもしれません。
仮に映画を先に観ていたら、物凄く感動して、逆に小説には感動しなかったのかもしれません。
また、映像というマルチな表現と活字という表現で同じ境地に達したと考えると、本という
チープコンテンツで、ここまで心を震わす事が出来るのかと思ってしまったのです。
分かりやすい言い方をここでする意味があるか分かりませんが、映画がこの一年でのNO1だとするのですが、小説はここ5年とかのNO1なんですよね。
小説表現で、人間の深部にここまで迫ることが出来るのか!と読んだ当時、そしてその後に年月が経ってあらためて見えてくる吉田修一の描き出す能力才能にただただ今でも感嘆しているのです。
それを映像で描き出し、同じポジションまで来たというのは十二分に凄い事なんですけどね。。
ホント映像化は無理だと思ってましたもん。仮にしてもつまらなくなるだろうと思ってました。
映画の「悪人」は、それこそ誰にでも堂々とお勧め出来る作品です。
それこそオススメするという意味では、小説よりおすすめが出来ます。
久しぶりに、いやもしかしたら自分の中で史上初めて、97点と99点で優越がついてしまった
忘れることが出来ない作品に出会えました。この監督さんはこれからもずうーーっと追っかけて
いきます。
まず、始めに言ってしまうと個人的には今年no1作品になった。
元々のぶっとい原作を完全に掌握して、演出をした監督の力量は、ものすごいモノがあると
言わざるを得ない。
名優たちの優れた演技をお互いに信頼し、演出を徹底して、アップの映像がとても多かった。
被写界深度もギリギリまで上げて、ほとんど顔以外はボケていて、迫力と説得力が凄かった。
あすこまでアップにしてブレない演技は、正に名優たちです!
大体あれだけアップを多用したら普通飽きるというか、話が破綻してしまいますよ。
それをあえて、あえてというか、あの演出しかなかったんだと思う。
人間の感情の深部をえぐり出すには、説得力のある”顔”が一番だと思う。
樹木希林、柄本明、満島ひかり、勿論、妻夫木聡と深津絵里。
あれだけ徹底出来るのは、演出の確かさと俳優監督の信頼感、それが生み出す作品としての強さ
色々な要素が揃わないとありえない作品だ!と思った。
ローケションも頭にあったシーンが完全再現されていた。これはもしかしたら既に原作が描かれて
いた時点で吉田修一が、その場所を念頭に小説を書いていたのかもしれないけど。小説を読んで
浮かんだ風景とほとんどズレが無かった。それを忠実に再現していた。ロケハン能力、間違いない演出
これらもまた物凄い力強い作品を作り出す原動力になっていた。
それにしても深津絵里という女優は何なんだろう。。人格が完全に入ってしまうんだろうか。
途中、逃亡を始める前に抱かれた後から顔が変わっていた。勿論端的な演出もあるのだろうけど、
あの心の精神の深部から出てくる顔はなんだったんだろう。。脚本と原作と演出とから汲み取った
ものがどうやってあすこまで身体に宿ることが出来るのだろうか。
作品のストーリーの多重構造化と登場人物達の精神的多重化とが、ガチガチに絡みあって、この悪人という作品を形作っているのだと思うのだけど、それがきちんと伝わってきて、何度か心が悲鳴を上げて震えてしまった。泣けるというより心臓を直接掴まれるような精神をナイフで傷つけられるような、肉体的な痛みを伴った涙だった。涙というかチープですが「心の叫び」だった。
感情を形に表せないから叫ぶしかないような痛さだった。
まぁとにかく、見所が満載だったんです。演出、俳優、ストーリー三位一体の揺るがない力強い作品でした。
と、ここまで絶賛なのですが、悲しいかな、自分の中では原作の小説を超えてはいないな。
という風に見えてしまいました。忠実で完璧なんだけど、完璧すぎる故に同じ感情を得る事が
出来た小説のほうが強く心に残ってしまうのです。到達点のゴールが一緒だったんです。
それ故にすでに感じた感情がまた湧き上がってきただけになってしまったのです。
もうなんだか、これはどうしようもないのかもしれません。
仮に映画を先に観ていたら、物凄く感動して、逆に小説には感動しなかったのかもしれません。
また、映像というマルチな表現と活字という表現で同じ境地に達したと考えると、本という
チープコンテンツで、ここまで心を震わす事が出来るのかと思ってしまったのです。
分かりやすい言い方をここでする意味があるか分かりませんが、映画がこの一年でのNO1だとするのですが、小説はここ5年とかのNO1なんですよね。
小説表現で、人間の深部にここまで迫ることが出来るのか!と読んだ当時、そしてその後に年月が経ってあらためて見えてくる吉田修一の描き出す能力才能にただただ今でも感嘆しているのです。
それを映像で描き出し、同じポジションまで来たというのは十二分に凄い事なんですけどね。。
ホント映像化は無理だと思ってましたもん。仮にしてもつまらなくなるだろうと思ってました。
映画の「悪人」は、それこそ誰にでも堂々とお勧め出来る作品です。
それこそオススメするという意味では、小説よりおすすめが出来ます。
久しぶりに、いやもしかしたら自分の中で史上初めて、97点と99点で優越がついてしまった
忘れることが出来ない作品に出会えました。この監督さんはこれからもずうーーっと追っかけて
いきます。
ドガ展 [展覧会]
好きな、どんなものでもそういう事が多いのだけど、「何故好きなのか」というのを説明出来ない。ものすごく多角的な事を一瞬で判断して摑まれる(掴む)からで、それはとても感覚的なものにならざるを得ない。勿論、その直感は外れる事もあるし、時が経つにつれ変わっていく事もある。
ドガに関しては、摑まれたのが最近だったので、自分の中で言葉に落とし込めていなかった。オルセー美術館での一番の収穫が彼で、それ以来の再開だった。
今回の展覧会で、その何故を言葉にする事が出来たので、ここに記してみたいと思う。
それは、単純であるが、彼の視点だった。
それも3つの視点である。
ひとつめは、その絵画的手法としての視点である。彼の絵は、私にはとても被写界深度の浅い
レンズで捉えられたように、ピントが合う場所が物凄くピンポイントで描かれているものがある。
それこそ一点、その箇所にだけピントが合い、後はボケたような描き方をしている。この緩急の付け方が画面にとてつもない緊張感を生んでいる。この緊張感が、他の画家にはない絵の美しさを際立たせているのだと思う。勿論、ピントが合っていないボケた箇所も決して適当では無い。そこにも秩序が存在していて、そのぼかし方が絵全体の美しさをまた際立たせている。
例えば、浴槽の女の絵は、ピントが合うのは勿論女性の部分であるが、周りに配置された椅子の柄
や壁紙の柄がぼけさせて描かれているとは言え、色彩としてとても美しい。
この二つの描き方の方法が絵全体に緊張感を生みつつ、豊かなで伸びやかな感情を抱かせてくれるものだと思う。
付け加えるとすると、実際のカメラではなく絵なので、ピントが合う点を絵の中に距離は関係なく何点も入れる事が出来る。「バレエの授業」では、このように数カ所にピントを合わせる事で、構図や絵を観る視点を向かわせようとしているように感じる。
ふたつめは、題材の切り取り方の視点である。今回の目玉の「エトワール」の踊り子に象徴される美しさ。一瞬の切り取り方。いわゆる決定的瞬間を見い出すのが上手いのだ。それは多く扱った題材と表裏の関係にあり、バレエや馬のような肉体的美しさが際立つものをより効果的に、どのように切り取ると美しく見えるのか、見せたいのかをきちんと研究した成果である。上手いというより研究、研鑽を重ねた上に成り立つ視点と言える。美に対する考察を貪欲に取り組んで作品を作り上げているのだ。
それは、アトリエに残されていた多数の立体からも伺い知る事が出来る。
浴槽の女もかなり不思議な切り取り方だと思う。後姿でかつ、かかんでいるものが多い。
こちらは、裸婦に日常という観点を入れる為に選んだポーズだと思っている。美しさよりも日常の
一コマを浴槽の裸婦で表現する為に。裸婦という絵画では一般的なモチーフで日常を描く。という事をしたかったのだろう。卑猥にならずに肉感的美しさを描く為に選んだポーズだと思う。だから、顔はあえて外すという方法を取ったのだろう。とても面白いと思う。
みっつめは、構図の取り方である。若い頃に古典を模写する事で培った技術をベースに、遠近法と
大胆な構図の取り方で作品をとてもユニークなものにしている。
「エトワール」踊り子と床の配置、余白の使い方、構図を有効なものにする為の光の入れ方など
の構成力がさすがである。(偉そうに書いてるけど、これらが出来る画家が後世に残るのだ)
先ほどの浴槽の女の配置もユニークなものが多い。日本画の影響も受けたという事もあるようだ。ただ、それを自分の中できちんと消化して描いていると思う。
これらみっつの視点と、時代的な変革(と言っても、それは自分で勝ち取ったものが多いんだけど)
で現れたテーマが融合された事で、普遍性をもつ優れた作品、作家が誕生したのだと思う。
そう考えると選んだテーマという視点もありますね。
ドガという画家は、このように複雑な視点を観る側に与えてくれるので、
なんだろう?きっと、いつまでも飽きずに新鮮な気持ちで鑑賞出来る画家のような気がするのだ。
作品の前に立ち、緊張を覚え、微笑みをたたえ、驚嘆し、また再会を楽しみにして別れる。
これから生きていく間に何度会えるか分からない、そのプロセスさえ絵画を楽しむ一部になる
画家だと思えるのです。
ドガに関しては、摑まれたのが最近だったので、自分の中で言葉に落とし込めていなかった。オルセー美術館での一番の収穫が彼で、それ以来の再開だった。
今回の展覧会で、その何故を言葉にする事が出来たので、ここに記してみたいと思う。
それは、単純であるが、彼の視点だった。
それも3つの視点である。
ひとつめは、その絵画的手法としての視点である。彼の絵は、私にはとても被写界深度の浅い
レンズで捉えられたように、ピントが合う場所が物凄くピンポイントで描かれているものがある。
それこそ一点、その箇所にだけピントが合い、後はボケたような描き方をしている。この緩急の付け方が画面にとてつもない緊張感を生んでいる。この緊張感が、他の画家にはない絵の美しさを際立たせているのだと思う。勿論、ピントが合っていないボケた箇所も決して適当では無い。そこにも秩序が存在していて、そのぼかし方が絵全体の美しさをまた際立たせている。
例えば、浴槽の女の絵は、ピントが合うのは勿論女性の部分であるが、周りに配置された椅子の柄
や壁紙の柄がぼけさせて描かれているとは言え、色彩としてとても美しい。
この二つの描き方の方法が絵全体に緊張感を生みつつ、豊かなで伸びやかな感情を抱かせてくれるものだと思う。
付け加えるとすると、実際のカメラではなく絵なので、ピントが合う点を絵の中に距離は関係なく何点も入れる事が出来る。「バレエの授業」では、このように数カ所にピントを合わせる事で、構図や絵を観る視点を向かわせようとしているように感じる。
ふたつめは、題材の切り取り方の視点である。今回の目玉の「エトワール」の踊り子に象徴される美しさ。一瞬の切り取り方。いわゆる決定的瞬間を見い出すのが上手いのだ。それは多く扱った題材と表裏の関係にあり、バレエや馬のような肉体的美しさが際立つものをより効果的に、どのように切り取ると美しく見えるのか、見せたいのかをきちんと研究した成果である。上手いというより研究、研鑽を重ねた上に成り立つ視点と言える。美に対する考察を貪欲に取り組んで作品を作り上げているのだ。
それは、アトリエに残されていた多数の立体からも伺い知る事が出来る。
浴槽の女もかなり不思議な切り取り方だと思う。後姿でかつ、かかんでいるものが多い。
こちらは、裸婦に日常という観点を入れる為に選んだポーズだと思っている。美しさよりも日常の
一コマを浴槽の裸婦で表現する為に。裸婦という絵画では一般的なモチーフで日常を描く。という事をしたかったのだろう。卑猥にならずに肉感的美しさを描く為に選んだポーズだと思う。だから、顔はあえて外すという方法を取ったのだろう。とても面白いと思う。
みっつめは、構図の取り方である。若い頃に古典を模写する事で培った技術をベースに、遠近法と
大胆な構図の取り方で作品をとてもユニークなものにしている。
「エトワール」踊り子と床の配置、余白の使い方、構図を有効なものにする為の光の入れ方など
の構成力がさすがである。(偉そうに書いてるけど、これらが出来る画家が後世に残るのだ)
先ほどの浴槽の女の配置もユニークなものが多い。日本画の影響も受けたという事もあるようだ。ただ、それを自分の中できちんと消化して描いていると思う。
これらみっつの視点と、時代的な変革(と言っても、それは自分で勝ち取ったものが多いんだけど)
で現れたテーマが融合された事で、普遍性をもつ優れた作品、作家が誕生したのだと思う。
そう考えると選んだテーマという視点もありますね。
ドガという画家は、このように複雑な視点を観る側に与えてくれるので、
なんだろう?きっと、いつまでも飽きずに新鮮な気持ちで鑑賞出来る画家のような気がするのだ。
作品の前に立ち、緊張を覚え、微笑みをたたえ、驚嘆し、また再会を楽しみにして別れる。
これから生きていく間に何度会えるか分からない、そのプロセスさえ絵画を楽しむ一部になる
画家だと思えるのです。
シャッターアイランド [映画]
シャッターアイランドを観た。
お話のどんでん返しや、複雑さなど映画たる部分も沢山あったし、
ディカプリオの演技も良いのだけど、、、
何故スコセッシがこれを撮りたかったんだろう?というのが見えて来なかったのが
一番納得がいかない所だった。
ウム。。。良い脚本、良い役者、十分な予算に囲まれていたら、
この位の映画はスコセッシでなくても撮れると思うのだ。
それを敢えて取り組んで、何かそれ以上のもの。そういうモノが見えてこなった
というのが、どうにも不満なのです。
そして、映画が始まるまえに「色々仕掛けがあるから、よーく観て下さいね!」
なーんて、わざわざ断わりを画面で入れる所。これはスコセッシの意向とかでは
ないと思うけど、そこまで観客を教育しなければいけないのか??
この演出(と敢えて言うけど)は、客を馬鹿にしているか、
もしくは自分の映画に自信がないのか?としか思えなかった。
確かに最後、そして最後の最後は、かなり複雑で、それが映画のラストをとても
味わい深いものにしている。
だけど、スコセッシの演出、ストーリーの運び方、そして十分に説明を挟み込める上映時間
を考えると、あんな文字は出す必要はない!
ちゃんとラストシーンの意味は通じると思う。
最近の客は、よっぽど馬鹿なんだろうか??
1800円もの金を払って、こちらの観る側も真剣なのだ!
まぁ、もしかしたら、俺が古い人間で、映画が大好き過ぎるだけなのかもしれないけど。。
ネタバレになってしまうので、あまり内容には触れないけど、
ラスト近くの、湖畔の家のシーン。あの映像美!!
あれを期待しているのだ!私は!スコセッシに!!
また、捕虜にした人間を並べて撃つ時のレール撮影!も好きなシーンでした。
ディカプリオも流石!の演技です。あのくたびれた感じなのに眼光だけは異様に鋭い
というのは、この映画の配役にピッタリの役作り。
ただ何だろうな、、、
あの緊張感を敢えて外すシーンが必要なんじゃないかなー。それが頭痛を伴う所なのかな。
あ、洞窟のシーンはそんな感じか。
スコセッシという部分を抜けば、映画として大変面白く、結構一般受けもすると思う。
暗い話だけど、とても映画的な話だ。(一般的にね)
自分の興味と映画に観たいものが噛み合わなかっただけで、
エンターテイメント映画と張り合える面白い映画だと思う。
映画に何がしかの娯楽性より芸術性を求めてしまう傾向が最近の自分にあるのかもしれない。
なんか、自分の側に問題があるような気がしてきました。
ただね、映画を愛しているのなら、テレビのような文字の説明演出はしてはいけないと
思うのだよ。映画にとって、とても厳しい時代なのかもしれないね、今は。
たくさん観に行かなきゃ!!
お話のどんでん返しや、複雑さなど映画たる部分も沢山あったし、
ディカプリオの演技も良いのだけど、、、
何故スコセッシがこれを撮りたかったんだろう?というのが見えて来なかったのが
一番納得がいかない所だった。
ウム。。。良い脚本、良い役者、十分な予算に囲まれていたら、
この位の映画はスコセッシでなくても撮れると思うのだ。
それを敢えて取り組んで、何かそれ以上のもの。そういうモノが見えてこなった
というのが、どうにも不満なのです。
そして、映画が始まるまえに「色々仕掛けがあるから、よーく観て下さいね!」
なーんて、わざわざ断わりを画面で入れる所。これはスコセッシの意向とかでは
ないと思うけど、そこまで観客を教育しなければいけないのか??
この演出(と敢えて言うけど)は、客を馬鹿にしているか、
もしくは自分の映画に自信がないのか?としか思えなかった。
確かに最後、そして最後の最後は、かなり複雑で、それが映画のラストをとても
味わい深いものにしている。
だけど、スコセッシの演出、ストーリーの運び方、そして十分に説明を挟み込める上映時間
を考えると、あんな文字は出す必要はない!
ちゃんとラストシーンの意味は通じると思う。
最近の客は、よっぽど馬鹿なんだろうか??
1800円もの金を払って、こちらの観る側も真剣なのだ!
まぁ、もしかしたら、俺が古い人間で、映画が大好き過ぎるだけなのかもしれないけど。。
ネタバレになってしまうので、あまり内容には触れないけど、
ラスト近くの、湖畔の家のシーン。あの映像美!!
あれを期待しているのだ!私は!スコセッシに!!
また、捕虜にした人間を並べて撃つ時のレール撮影!も好きなシーンでした。
ディカプリオも流石!の演技です。あのくたびれた感じなのに眼光だけは異様に鋭い
というのは、この映画の配役にピッタリの役作り。
ただ何だろうな、、、
あの緊張感を敢えて外すシーンが必要なんじゃないかなー。それが頭痛を伴う所なのかな。
あ、洞窟のシーンはそんな感じか。
スコセッシという部分を抜けば、映画として大変面白く、結構一般受けもすると思う。
暗い話だけど、とても映画的な話だ。(一般的にね)
自分の興味と映画に観たいものが噛み合わなかっただけで、
エンターテイメント映画と張り合える面白い映画だと思う。
映画に何がしかの娯楽性より芸術性を求めてしまう傾向が最近の自分にあるのかもしれない。
なんか、自分の側に問題があるような気がしてきました。
ただね、映画を愛しているのなら、テレビのような文字の説明演出はしてはいけないと
思うのだよ。映画にとって、とても厳しい時代なのかもしれないね、今は。
たくさん観に行かなきゃ!!
digitalstage/motiondive5発表会? [Ustream]
日記のカテゴリーに「Ustream」を追加した。
今一番面白いメディアであると共に、これからも何度もブログを書くことになるだろうと
昨日のdigitalstageの発表会を見て思った。
2010年3月13日22時より、digitalstageさんが、新しいmotiondiveの開発を行った。
motiondiveの説明は此処。
http://www.digitalstage.jp/mdt/index.php
ものすごく簡単に言っちゃうとVJの世界標準のソフト。
私も持ってます。
だけど、今回は、ソフトの新機能とか、そういう内容の事よりも(内容は後述)
Ustreamでこの発表を行い、Twitterと連動して、ソフトアイデアを広くみんなで考えていこうよ!
みんなで面白いソフトを作っちゃおうぜ!!というそのあまりに新しい開発スタイルそのものに
感動した!
TwitterやUstreamの洗礼をどっぷり受けているものには、ものすごく直感的に分かりやすい
感情だと思った。
最終的に企業であるから、会社を成り立たせる為の本業があるけれど、
今回のmotiondiveの開発は、
「今!今!やるべき!!この熱さを逃すのは間違っている!!!」
という感情が先行でプロジェクトが始まっている。(と思う)
実際には色々な事を天秤にかけての決断だろうけど、会社として考えるとGoogleの20%ルール
のような形で進めていく事になるのかな。
それをせっかくTwitter、Ustreamなんてツールが揃っているんだから、みんなでやっちゃったほうが
絶対に楽しいし、すごい事になるよね!!!という
みんなでドキドキワクワクハラハラしながら、すんげぇソフトが出来上がったら!
なんて思うと、
本当に何か、なんだろ?
2001年宇宙の旅のモノリスが出現した時のような、社会がシフトする音を聴いたような気がした。
元々、digitalstageさんはソフトというよりドキドキをくれる会社だと思っている。
そのドキドキが、今回は今までと形を変えてすっごくデッカイのに身近なものに感じた。
motiondive5の根幹自体は、かなり出来上がっているようで、今回は
Intel mac専用とした事で、MacOSの持つグラフィック関係の機能を直接フルに使うことで
複雑な処理を高速で行っている。
またマルチスクリーンへの完全対応、そしてUstreamへ映像をソフトから直接吐き出しをする事も
可能。その他2台のカメラ接続に対応やオーディオのミキシングと調整など、
映像を『魅せる』為の機能はがっつり装備されている。
正直、てんこ盛り過ぎるとも言えるけど、今回はシリーズという形で機能別売りもあるのかもしれないな、と思った。(まだご自身も手探り状態という感じだった)
まずはα版を出してブラッシュアップを図っていきたいとの事。
出来ることがあれば、微力ながらお手伝いをしたいし、Ust放送は出来るだけリアルタイム参加したいと思う。てか自分自身が楽しいんだもん!
とりあえず、ノートは、PBG4からMacBookProへの買い替えをしなきゃイケないだろう。
望むところだ!iPadは元々買うとして。
アップルさん、早くコアi7のノート出しましょうよ!!
この大きな波を時代を、自分も目一杯楽しんで行こう!
みんなも一緒に楽しんで行こうよ!!!
今一番面白いメディアであると共に、これからも何度もブログを書くことになるだろうと
昨日のdigitalstageの発表会を見て思った。
2010年3月13日22時より、digitalstageさんが、新しいmotiondiveの開発を行った。
motiondiveの説明は此処。
http://www.digitalstage.jp/mdt/index.php
ものすごく簡単に言っちゃうとVJの世界標準のソフト。
私も持ってます。
だけど、今回は、ソフトの新機能とか、そういう内容の事よりも(内容は後述)
Ustreamでこの発表を行い、Twitterと連動して、ソフトアイデアを広くみんなで考えていこうよ!
みんなで面白いソフトを作っちゃおうぜ!!というそのあまりに新しい開発スタイルそのものに
感動した!
TwitterやUstreamの洗礼をどっぷり受けているものには、ものすごく直感的に分かりやすい
感情だと思った。
最終的に企業であるから、会社を成り立たせる為の本業があるけれど、
今回のmotiondiveの開発は、
「今!今!やるべき!!この熱さを逃すのは間違っている!!!」
という感情が先行でプロジェクトが始まっている。(と思う)
実際には色々な事を天秤にかけての決断だろうけど、会社として考えるとGoogleの20%ルール
のような形で進めていく事になるのかな。
それをせっかくTwitter、Ustreamなんてツールが揃っているんだから、みんなでやっちゃったほうが
絶対に楽しいし、すごい事になるよね!!!という
みんなでドキドキワクワクハラハラしながら、すんげぇソフトが出来上がったら!
なんて思うと、
本当に何か、なんだろ?
2001年宇宙の旅のモノリスが出現した時のような、社会がシフトする音を聴いたような気がした。
元々、digitalstageさんはソフトというよりドキドキをくれる会社だと思っている。
そのドキドキが、今回は今までと形を変えてすっごくデッカイのに身近なものに感じた。
motiondive5の根幹自体は、かなり出来上がっているようで、今回は
Intel mac専用とした事で、MacOSの持つグラフィック関係の機能を直接フルに使うことで
複雑な処理を高速で行っている。
またマルチスクリーンへの完全対応、そしてUstreamへ映像をソフトから直接吐き出しをする事も
可能。その他2台のカメラ接続に対応やオーディオのミキシングと調整など、
映像を『魅せる』為の機能はがっつり装備されている。
正直、てんこ盛り過ぎるとも言えるけど、今回はシリーズという形で機能別売りもあるのかもしれないな、と思った。(まだご自身も手探り状態という感じだった)
まずはα版を出してブラッシュアップを図っていきたいとの事。
出来ることがあれば、微力ながらお手伝いをしたいし、Ust放送は出来るだけリアルタイム参加したいと思う。てか自分自身が楽しいんだもん!
とりあえず、ノートは、PBG4からMacBookProへの買い替えをしなきゃイケないだろう。
望むところだ!iPadは元々買うとして。
アップルさん、早くコアi7のノート出しましょうよ!!
この大きな波を時代を、自分も目一杯楽しんで行こう!
みんなも一緒に楽しんで行こうよ!!!
ルノアール 〜伝統と革新〜 [展覧会]
国立新美術館のルノアールの展覧会。
前からかなり楽しみにしていた。
これだけたくさんのルノアールを一度に見れる事などなかなか無いだろうと思っていたから
なのだが、
これから行かれる方もいらっしゃると思うので、少し下げておきます。
それがむしろ裏目に出てしまったような展覧会だった。。
数が多すぎる事よりも作品のクオリティが低かった。。
勿論素敵な作品もあるのだが、なんと言うか明らかに絵としての質が劣る作品が多いと
感じてしまった。
もしかしたら、実際にはそんな事はないのかもしれない(とはやっぱり思えないけど)
でも、中には「これは明らかに本人は世の中に出そうとは思っていなかっただろう。」
というような、下書きのような、書き損じのような作品が平然と飾られていた。
歴史のいたづらの中で、本人の意志とは全く関係ない所で、作品として売買されてしまうような事は
確かにあると思う。ぶっちゃけ売るほうも売る方だが、買う方も買う方だ。
ルノアールという名前だけで、買ったとしか思えない。そんな風にしか見えない作品もあった。
所蔵先を見ると、日本にあるルノアール作品は、全部ここに集まったのではないか?という
位色々な日本の美術館が名を連ねていて、なぁんか、大人の事情もあって飾っているんじゃないの?
って訝しく思えてしまいます。
新美術館はホントでかいからね。まず数を揃えないと。と考えてしまうだろうけど、
しかしあえて、数を絞って、質にこだわったほうが絶対に良いと思う。
人は、たくさん見たいんじゃない。すごいものを見たいんだ。
(昔見たダヴィンチの「受胎告知」が好例)
そして、次に気に入らなかったのは、ルノアールの絵を光学調査したという発表を
展覧会の流れの中で大きくやっていた点。
あれ、あの場所に必要か???
やるならせめて、もう一個の映像コーナーと場所替えた方がいいだろう。
研究に意味が無いとまでは言わないけれど、展覧会で大々的にフロアーを取ってやる事とは
どうしても思えない。
若い頃と歳を取ってからで、使う色の傾向が変わった?、下絵はロングヘアーだったのが、まとめ髪に変わった?So what???
そんな事は、表現をしていれば自明だろうし、絵描きが作品のプロセスや傾向をわざわざ
見せたいとは、とてもじゃないが思えない。
世に出した作品そのものが、評価の対象であり、全てだ!
歴史、文化、という側面から調査を行う事は、必要だと思うし、意義があると思う。
しかし、展覧会の順路の途中で大々的に行う事ではないと思う。
ふたつも指摘したくなる展覧会となってしまった事で、プラスの面は、ほとんど食われてしまった。
実際3枚のポストカードを買って来たけど、カタログは買わなかった。必要ないと思った。
これは、私としてはかなり珍しい事だ。
タイトルの「ルノアール 〜伝統と革新」。
このタイトルは、とても挑戦的で素敵だと思った。
「伝統と革新」というタイトルを付ける展覧会は、飾る作品もそうだが、
展覧会そのものの姿勢が、まさに伝統と革新を持ったものじゃないといけないと思う。
いや多分、展覧会のタイトルというものは、そういう気概を持ってつけらえるべきものなんじゃ
ないだろうか。
最上級のルノアールをたくさーーん見たくなってしまった。
やっぱり日本では無理なのかもしれないな。渡欧したい。なぁ。
前からかなり楽しみにしていた。
これだけたくさんのルノアールを一度に見れる事などなかなか無いだろうと思っていたから
なのだが、
これから行かれる方もいらっしゃると思うので、少し下げておきます。
それがむしろ裏目に出てしまったような展覧会だった。。
数が多すぎる事よりも作品のクオリティが低かった。。
勿論素敵な作品もあるのだが、なんと言うか明らかに絵としての質が劣る作品が多いと
感じてしまった。
もしかしたら、実際にはそんな事はないのかもしれない(とはやっぱり思えないけど)
でも、中には「これは明らかに本人は世の中に出そうとは思っていなかっただろう。」
というような、下書きのような、書き損じのような作品が平然と飾られていた。
歴史のいたづらの中で、本人の意志とは全く関係ない所で、作品として売買されてしまうような事は
確かにあると思う。ぶっちゃけ売るほうも売る方だが、買う方も買う方だ。
ルノアールという名前だけで、買ったとしか思えない。そんな風にしか見えない作品もあった。
所蔵先を見ると、日本にあるルノアール作品は、全部ここに集まったのではないか?という
位色々な日本の美術館が名を連ねていて、なぁんか、大人の事情もあって飾っているんじゃないの?
って訝しく思えてしまいます。
新美術館はホントでかいからね。まず数を揃えないと。と考えてしまうだろうけど、
しかしあえて、数を絞って、質にこだわったほうが絶対に良いと思う。
人は、たくさん見たいんじゃない。すごいものを見たいんだ。
(昔見たダヴィンチの「受胎告知」が好例)
そして、次に気に入らなかったのは、ルノアールの絵を光学調査したという発表を
展覧会の流れの中で大きくやっていた点。
あれ、あの場所に必要か???
やるならせめて、もう一個の映像コーナーと場所替えた方がいいだろう。
研究に意味が無いとまでは言わないけれど、展覧会で大々的にフロアーを取ってやる事とは
どうしても思えない。
若い頃と歳を取ってからで、使う色の傾向が変わった?、下絵はロングヘアーだったのが、まとめ髪に変わった?So what???
そんな事は、表現をしていれば自明だろうし、絵描きが作品のプロセスや傾向をわざわざ
見せたいとは、とてもじゃないが思えない。
世に出した作品そのものが、評価の対象であり、全てだ!
歴史、文化、という側面から調査を行う事は、必要だと思うし、意義があると思う。
しかし、展覧会の順路の途中で大々的に行う事ではないと思う。
ふたつも指摘したくなる展覧会となってしまった事で、プラスの面は、ほとんど食われてしまった。
実際3枚のポストカードを買って来たけど、カタログは買わなかった。必要ないと思った。
これは、私としてはかなり珍しい事だ。
タイトルの「ルノアール 〜伝統と革新」。
このタイトルは、とても挑戦的で素敵だと思った。
「伝統と革新」というタイトルを付ける展覧会は、飾る作品もそうだが、
展覧会そのものの姿勢が、まさに伝統と革新を持ったものじゃないといけないと思う。
いや多分、展覧会のタイトルというものは、そういう気概を持ってつけらえるべきものなんじゃ
ないだろうか。
最上級のルノアールをたくさーーん見たくなってしまった。
やっぱり日本では無理なのかもしれないな。渡欧したい。なぁ。
iPod classic [mac関連]
2月の仕事の頑張りへのご褒美にiPod classicを買った。
半年ぶりのclassicである。
半年前、iPodを盗まれて以来、色々な事が変化をして、それを元に戻す努力をして、
世間の変化もネガティブな方向に全然止まらなくて、そんな閉塞感があった半年間。
それが元に戻った証としての(戻ったと言うより次に進める準備が整ったとしよう)最後のピースを
このiPod classicにしたい。
購入してみて、思ったのは、まず「絶対に生活に必要だな。」という事。
元々あったものだから思い出したと言う事だけど、ここ最近はiPhoneで音楽を聴いていた。
iPodを使い始めたらiPhoneの「何でも出来る」という利点は、ある意味不便なんだな。と感じてしまった。
もしくは、音楽という存在はどんな時でも、独立して自由にアクセス出来るものでなくてはならないのだな
と思った。
iPhoneでも音楽を聴きながら他の事を出来る場合も多いけど、出来ない場合もある。
完全なマルチタスクじゃないからね。
音楽は、そんな他の状況なんかお構いなしに聴きたい時に聴きたい音楽を耳に出来るものじゃないといけない。
それが当たり前だったからだけど、当たり前の事が出来ない不便さがこの場合
わかりづらかったような気がする。思ったよりストレスだったんだなって買ってからじゃないと気づけなかった。
そして、iPod classicの一番の利点。ライブラリを全て持ち運ぶ事が出来るという点。
衝動的にborn slippyが聴きたくなったり、JBのシャウトを聴かないと耐えられないとか、
10年前に飛びたくなったり、国を越えたくなったり、ランダムで気分を替えてもらったり、
その恩恵は一度味わってしまうと、多分忘れられない快感なのだ。
そんな事が、このiPod classic一個で出来てしまう。しかも今回は160G!!
前(60G)は諦めていた撮った写真を全部持ち運ぶ事をしてもまだ、90Gも余っている。
これからは動画を持ち運ぶ事も視野に入れる事が出来る。
きちんとVGAは出るようなので、テレビソースを写す方法を出来るだけ簡単に行う事を考えれば、
色々な面で時間を上手く活用出来るだろう。とりあえず見ておきたいというソースがテレビ情報には
多いので。
そしてまぁしかし、軽く持ち運びやすくもなりましたね。傷が付きづらそうな外観とiPhoneより
小さい事で、携帯する事が気持ちの面でどんどん軽くなってます。
iPhoneで担っていた音楽機能をこっちに移す事で、もしかしたら電池の持ちも良くなるかも知れない?!
世の中は、まだまだ戦わないと自分を保てそうにない状況が続いていく気配しかない。
そんな閉塞感は、自分の周りだけでも自由を押し広げていかないと空気不足の金魚のように
口をパクパクするしかなくなってしまう。
iPodは、そんな世の中を渡る俺の十分な武器であり、寝袋になってくれると思う。
今日も一緒に行くよ!!
半年ぶりのclassicである。
半年前、iPodを盗まれて以来、色々な事が変化をして、それを元に戻す努力をして、
世間の変化もネガティブな方向に全然止まらなくて、そんな閉塞感があった半年間。
それが元に戻った証としての(戻ったと言うより次に進める準備が整ったとしよう)最後のピースを
このiPod classicにしたい。
購入してみて、思ったのは、まず「絶対に生活に必要だな。」という事。
元々あったものだから思い出したと言う事だけど、ここ最近はiPhoneで音楽を聴いていた。
iPodを使い始めたらiPhoneの「何でも出来る」という利点は、ある意味不便なんだな。と感じてしまった。
もしくは、音楽という存在はどんな時でも、独立して自由にアクセス出来るものでなくてはならないのだな
と思った。
iPhoneでも音楽を聴きながら他の事を出来る場合も多いけど、出来ない場合もある。
完全なマルチタスクじゃないからね。
音楽は、そんな他の状況なんかお構いなしに聴きたい時に聴きたい音楽を耳に出来るものじゃないといけない。
それが当たり前だったからだけど、当たり前の事が出来ない不便さがこの場合
わかりづらかったような気がする。思ったよりストレスだったんだなって買ってからじゃないと気づけなかった。
そして、iPod classicの一番の利点。ライブラリを全て持ち運ぶ事が出来るという点。
衝動的にborn slippyが聴きたくなったり、JBのシャウトを聴かないと耐えられないとか、
10年前に飛びたくなったり、国を越えたくなったり、ランダムで気分を替えてもらったり、
その恩恵は一度味わってしまうと、多分忘れられない快感なのだ。
そんな事が、このiPod classic一個で出来てしまう。しかも今回は160G!!
前(60G)は諦めていた撮った写真を全部持ち運ぶ事をしてもまだ、90Gも余っている。
これからは動画を持ち運ぶ事も視野に入れる事が出来る。
きちんとVGAは出るようなので、テレビソースを写す方法を出来るだけ簡単に行う事を考えれば、
色々な面で時間を上手く活用出来るだろう。とりあえず見ておきたいというソースがテレビ情報には
多いので。
そしてまぁしかし、軽く持ち運びやすくもなりましたね。傷が付きづらそうな外観とiPhoneより
小さい事で、携帯する事が気持ちの面でどんどん軽くなってます。
iPhoneで担っていた音楽機能をこっちに移す事で、もしかしたら電池の持ちも良くなるかも知れない?!
世の中は、まだまだ戦わないと自分を保てそうにない状況が続いていく気配しかない。
そんな閉塞感は、自分の周りだけでも自由を押し広げていかないと空気不足の金魚のように
口をパクパクするしかなくなってしまう。
iPodは、そんな世の中を渡る俺の十分な武器であり、寝袋になってくれると思う。
今日も一緒に行くよ!!
iPad [mac関連]
まぁ、この日記、書くしかないわな。
本日、Appleの新製品iPadが発表になりました。
私は、発表の午前三時に起きて、ストリーミングで発表の模様を見ました。
その時の感想は「結局、大きいiPod touchやん。。」という位で、
大してテンションも上がらずさっさとまた寝てしまいました。
で、今朝からは、色々なニュースサイトやTwitterの発言を拾って、読んで行くうちに、このiPadなるものの存在の意味がよーく分かってきて、今ではすっかり
買う気が満々です!
結局、メインプラットホームは、ここに移行すると思われます。
iPad。
簡単に言うと、パソコンの前からもっと自由になろうよ!って事。
パソコンに向ってやってる事は、もうパソコンの前に居なくても、どんな場所でも出来るんだよ!
そして、iPadは自由になったから、何にでも変身出来るんだよ!って事。
パソコン自体が、もう既にテレビにもラジオにも写真のアルバムにも本にも音楽プレーヤーにも楽器にもという他メディアの媒体になっているけど、それをもっとその本来の形に近い形で提供出来るデバイス。
テレビのように振る舞え、ラジオチューナーのように振る舞え、フォトアルバムのようにも、本のようにも、そして楽器にも変身する。
そして、自由なデバイスが新たな提案、使い方を生んでいく!って事。
これだけ大きなマルチタッチの画面を使って、ソフトを持ち歩けて、今まで
考えもつかなかった使い方が出来る新たな場となるデバイス。今日面白いな、と思った発想は、マルチタッチを使って子供の足形、手形を撮って、そのままフォトアルバムにしちゃおう!とか。これは今までのパソコンの延長からは出て来ないなーって思った。
SlatePCでも同じ事が出来るんだと思う。でもあちらは「PCにこんな操作方法もつけました」ってスタンスで、iPadは書いたようにPCから自由になる事が発想の根っこ。全く違うんだよね。
私の場合は、まぁ特殊な部類ですが、今デスクトップMacPro(映像など重い作業がメイン)、ノートPBG4(メール、ブラウザなどいわゆるメイン機)、サブノートVAIOtypeP(外でテキスト打ち、ブラウジングをする用)と3台を使い分けていますが、
このノート、サブノートの部分をiPadに置き換えてしまおうと思っています。
このノート、サブノートってのは、デスクトップから自由になりたいという気持ちをなんとか2台で補完していた訳です。それがiPad1台で同じ役割を担う事が出来そうと思っています。
実際には、ノートをデスクトップに近づけようとか、いろんな努力もあるんですが、この際きっぱり割り切った未来を紡ぎたいと思います。
元々、自由になりたい!って思っていた私もですが、
普通に一台のパソコンを使っている方も、もっとパソコンの前から自由になってみたいと思いませんかね?
iPadって言うのは、そんなマシンだと、私は思うのです。
本日、Appleの新製品iPadが発表になりました。
私は、発表の午前三時に起きて、ストリーミングで発表の模様を見ました。
その時の感想は「結局、大きいiPod touchやん。。」という位で、
大してテンションも上がらずさっさとまた寝てしまいました。
で、今朝からは、色々なニュースサイトやTwitterの発言を拾って、読んで行くうちに、このiPadなるものの存在の意味がよーく分かってきて、今ではすっかり
買う気が満々です!
結局、メインプラットホームは、ここに移行すると思われます。
iPad。
簡単に言うと、パソコンの前からもっと自由になろうよ!って事。
パソコンに向ってやってる事は、もうパソコンの前に居なくても、どんな場所でも出来るんだよ!
そして、iPadは自由になったから、何にでも変身出来るんだよ!って事。
パソコン自体が、もう既にテレビにもラジオにも写真のアルバムにも本にも音楽プレーヤーにも楽器にもという他メディアの媒体になっているけど、それをもっとその本来の形に近い形で提供出来るデバイス。
テレビのように振る舞え、ラジオチューナーのように振る舞え、フォトアルバムのようにも、本のようにも、そして楽器にも変身する。
そして、自由なデバイスが新たな提案、使い方を生んでいく!って事。
これだけ大きなマルチタッチの画面を使って、ソフトを持ち歩けて、今まで
考えもつかなかった使い方が出来る新たな場となるデバイス。今日面白いな、と思った発想は、マルチタッチを使って子供の足形、手形を撮って、そのままフォトアルバムにしちゃおう!とか。これは今までのパソコンの延長からは出て来ないなーって思った。
SlatePCでも同じ事が出来るんだと思う。でもあちらは「PCにこんな操作方法もつけました」ってスタンスで、iPadは書いたようにPCから自由になる事が発想の根っこ。全く違うんだよね。
私の場合は、まぁ特殊な部類ですが、今デスクトップMacPro(映像など重い作業がメイン)、ノートPBG4(メール、ブラウザなどいわゆるメイン機)、サブノートVAIOtypeP(外でテキスト打ち、ブラウジングをする用)と3台を使い分けていますが、
このノート、サブノートの部分をiPadに置き換えてしまおうと思っています。
このノート、サブノートってのは、デスクトップから自由になりたいという気持ちをなんとか2台で補完していた訳です。それがiPad1台で同じ役割を担う事が出来そうと思っています。
実際には、ノートをデスクトップに近づけようとか、いろんな努力もあるんですが、この際きっぱり割り切った未来を紡ぎたいと思います。
元々、自由になりたい!って思っていた私もですが、
普通に一台のパソコンを使っている方も、もっとパソコンの前から自由になってみたいと思いませんかね?
iPadって言うのは、そんなマシンだと、私は思うのです。
雑誌記者向田邦子/上野たま子 [本]
この本の面白い所は、友人ならでは、女性ならではの感情が、客観と主観で混ざり合っている所にある。
面白い。客観的な部分と主観的な部分が、私が読むに4:6という感じで、
感情の出て方がマダラな感じで、だけど嫌な感じにはなってなくて、
男女で読後感に差が出そうで、要するに不完全な感じがあるのが逆説的に好印象であった。
前提としては、私が向田邦子は好きだが、好きな部分は御本人の文章、脚本のみで、
個人的な事はほとんど興味が無い。というのがある。(勿論、作家性と関係がある個人の特徴の部分は別です。)
この本の中から、そういう部分を除くと、若く強引で愛嬌があり人間らしい向田邦子が表れてくる。
そして、御本人達と共に時代の空気みたいなものが感じられる。溌剌と前に向かって行く感じ。
未来の方向に迷いが無い感じ。途中あまりのキラキラ具合にちょっと読むのを止めた時間があった位。
この本の書かれ方として、皆の知らない向田邦子という側面、著者本人だけが知り得た話が出て来て、それをひとつの軸としている。ひとつの軸であるので、その部分は貫かれている分、あまり気にせず読む事が出来た。ただ、その部分は私にはどちらでも、いやもしかしたら知りたくなかったのかもしれない。そう考えると気にはしているのかもしれない。
話を戻すと、女性が女性を観る視点が、赤裸裸で、そこに興味を覚えた。あまり聞ける感情じゃないからね。その冷静さに惹かれる。怖いとも思う。だけど知りたい。触れたいけど触れたくないみたいな所が、エッセイならではの中身で出て来るので(小説ではないという意味)ある爽やかさがあると思えた。それは前述の時代や本が書かれたタイミングとも関係があると思う。
ただ、それはとても個人的な感想で汲み取り方のような気もする。そこに嵌った所が、自分として、この本を読んで良かったなぁーという気持ちにさせた。
向田邦子さんは、この本の中にある編集者としての時期に、まさにスポンジのごとく色々な物を吸収する場を得て、御本人の才能と融合されて、この先々の活躍があったのだなぁと思えた。
この時、映画以外の部署に配属されていたら、本当にその先の活躍は無かったのかもしれない。
縁とは引き寄せて、引っ張るものなのですね。最近少し引っ張ってないかもしれないな、俺。。
了
面白い。客観的な部分と主観的な部分が、私が読むに4:6という感じで、
感情の出て方がマダラな感じで、だけど嫌な感じにはなってなくて、
男女で読後感に差が出そうで、要するに不完全な感じがあるのが逆説的に好印象であった。
前提としては、私が向田邦子は好きだが、好きな部分は御本人の文章、脚本のみで、
個人的な事はほとんど興味が無い。というのがある。(勿論、作家性と関係がある個人の特徴の部分は別です。)
この本の中から、そういう部分を除くと、若く強引で愛嬌があり人間らしい向田邦子が表れてくる。
そして、御本人達と共に時代の空気みたいなものが感じられる。溌剌と前に向かって行く感じ。
未来の方向に迷いが無い感じ。途中あまりのキラキラ具合にちょっと読むのを止めた時間があった位。
この本の書かれ方として、皆の知らない向田邦子という側面、著者本人だけが知り得た話が出て来て、それをひとつの軸としている。ひとつの軸であるので、その部分は貫かれている分、あまり気にせず読む事が出来た。ただ、その部分は私にはどちらでも、いやもしかしたら知りたくなかったのかもしれない。そう考えると気にはしているのかもしれない。
話を戻すと、女性が女性を観る視点が、赤裸裸で、そこに興味を覚えた。あまり聞ける感情じゃないからね。その冷静さに惹かれる。怖いとも思う。だけど知りたい。触れたいけど触れたくないみたいな所が、エッセイならではの中身で出て来るので(小説ではないという意味)ある爽やかさがあると思えた。それは前述の時代や本が書かれたタイミングとも関係があると思う。
ただ、それはとても個人的な感想で汲み取り方のような気もする。そこに嵌った所が、自分として、この本を読んで良かったなぁーという気持ちにさせた。
向田邦子さんは、この本の中にある編集者としての時期に、まさにスポンジのごとく色々な物を吸収する場を得て、御本人の才能と融合されて、この先々の活躍があったのだなぁと思えた。
この時、映画以外の部署に配属されていたら、本当にその先の活躍は無かったのかもしれない。
縁とは引き寄せて、引っ張るものなのですね。最近少し引っ張ってないかもしれないな、俺。。
了
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